2014年8月27日
於 防災都市計画研究所(東京都千代田区)
インタビュー参加者
朝野佳伸(平成6年卒、亀井組)
稲垣景子(平成8年卒、横浜国大)
鳥澤一晃(平成8年卒、鹿島建設)
吉田聡(平成7年卒、横浜国大)
菅野裕子(平成3年卒、横浜国大)
河端昌也(平成3年卒、横浜国大)
今回、新たな試みとして「恩師探訪」をスタートしました。横浜国立大学でお世話になった先生を訪問して、大学時代の思い出、研究の歩みやエピソード、後輩へのメッセージなどをご紹介したいと思います。第1回目は、村上處直(すみなお)先生です。
先生は、都市計画家、防災の専門家として、戦後の日本の都市防災において、中心的役割を果たしてこられました。1970年に防災都市計画研究所を設立され、1988年から2000年には横浜国立大学工学部教授として教育、研究に従事されました。(来歴と主な業績を末尾に記載します)
◇何度も大学を抜け出した
僕は、親父もおじいさんも物理学者だった。小学校の時の最後の担任が理科の先生でね、横浜国大っていい学校だから抜け出してこないように説得しろと、おふくろに言ってきたんだよね。
(先生、抜け出したことがあったんですか?)
何度も大学を抜け出したんだよ。最初は名古屋工大の電気だよ。入ったら授業で「ちゃんと真面目に研究をやれば東芝に入れる」とか言ってさ、就職するために座ってんのかと思って逃げ出してきて。そしたら、親父が困ってね。
大学受けなきゃいけない時、親父が何を言ったかっていうと「お前は勉強しないんだからね、受からない大学を受けろ」って言ったんだよ。あと「広島大学だけには来るな」って。親父は高等師範の教授だったのに、昭和25年に広大の助教授のポストに帰んなきゃいけないっていう羽目に陥ったって言ってた。だから、広大は受けられないしね。国大を受ける一年前が一番面白かった。四国の国際キリスト大学みたいなのに入れられちゃったんだよ。全寮制だから。隣の寮の部屋が大藪晴彦だった。ハードボイルドの小説書いて有名になった男だよ。
◇横浜国大工学部~東京大学大学院時代
(先生が横浜国大に入学された頃の話からお聞かせください。)
国大に入学して、グリークラブにいたんだよね。その頃、県立音楽堂ができたばかりで、そこの音響設計を東大の渡辺要研究室の石井聖光先生がやったというんで、そこに行きたいと思って、東大の大学院を無謀にも受けて、その時、横浜国大から7人東大に行ったんだよ。東大の大学院は16人しかいなかった中で7人横浜国大からだから、圧倒的な勢力だった。
博士課程に進む時に「もう東大やめて、ハーバードに願書出したら、来いっていうから、行くことにしました」なんて、生意気な話をした。だけど、旅費も授業料も何も考えてない。結局、渡辺先生が高山英華先生に「頼むよ」って言って、僕は高山さんのところに行くことになった。
(防災の研究を始められたのはなぜですか)
建築計画原論っていう、音とか光とか熱の物理的な環境と建物の関係を研究してたから、都市の領域で都市計画の物理現象との関係というのはないのかというのがアメリカのハーバードの先生に書いた内容だった。
◇四日市市臨海防災計画
最初は、四日市の公害対策をやれって言われて、通産と厚生の公害対策の大委員会があって、行ってみると、サットンの拡散式っていうのを先生が一所懸命にしゃべってね、それで物事が決まるわけなんだ。そうすると工場の煙突を高くしきゃいけないようになっちゃったんだよ、高くすれば遠くに飛んで薄くなるっていう発想だよ。だけど四日市町をテクテク歩きまくって、地元のおばさんに話をいろいろ聞いてると、風の吹いてないときに問題が起こってるんだよ。だからそういうのサットンの式でどうするんだって言ったら、サットンの方程式が採用されなくなっちゃった。
◇産炭地
産炭地っていうのは、下に穴を掘ると地面が沈むんだよ。それまでは土で埋めて平らにして、木造住宅を建てたんだよ。そこへ住宅公団が4階建ての団地を作るって言い出して、それをどうしたらいいかが僕に与えられた研究で、高山研に、昭和の初めから昭和40年までの、福岡通産局による筑豊の測量データがドサーッと来たんだよ。だけど、あの頃ね、コンピューターなんてまだしっかりしてないからね。全部手計算して、絵を作ったんだ。このような地図を何枚も作ったんだよ。
産炭地では、伸びてる所と縮んでる所があって、それが時間的に変わるんだよ。たとえば、ボタ山があってね、その近くに職業訓練場ができて、その後ボタ山の活用が決まって無くなっちゃうと職業訓練場が壊れちゃうんだよ。バシッと割れるんだよ。
(それは重みの関係で片方が軽くなると、もう一方が下がるということですか?)
簡単なこと言っちゃダメだよ。地層っていうのはね、ダイナミックに動くんだよ。だから、地層力学っていうのを作ったんだよ。それで、一編だけ論文を書いて発表したことがあるんだけど、最上先生っていう東大の地質の大先生が「これでドクターになれるから来い」と言ってね、だけど土木の先生になるつもりはなくて、行かなかったら、高山先生から「お前、ドクターなんて、ほっぺたについた米粒みたいなもの。何を言ってんだよお前は」とか怒られちゃってさ。
◇大阪万博、筑波、国有地の跡地利用
ちょうど1970年万博の年から大蔵省に関係を持ち始めたんだよ。筑波の跡地とか、基地や国有地の処分のところに高山先生が入っていてさ、これもお前だって言うんだね、それで処分の小委員会みたいなのを作って、そこでほとんど決めたんだよ。その時の国有財産の有効利用に関する中間答申というがあるんだけど、箱根のホテルでまとめたんだよ。その時に、みんなが防災公園にして欲しいって言うんだよね。それで、同程度の規模の防災公園を作ったら、今の国有地の跡地は無償で貸与してもいいという仕掛けを作ったんだよ。そしたらいろんな自治体が半分は買わせてくれって言うんだよね。だから半分は国有地なんだよ。それの最初が大阪の万博なんだよ。大阪の万博も半分は大阪府が持ってて、半分は理財局なんだよ。
◇杉並第十小学校
蚕糸試験場の杉十(杉並第十小学校)が入ってるとこだって、杉十の部分と、森の部分があるでしょ。森の方の半分が理財局だからね。
(学校の校庭の、その外との境目にフェンスがない。杉並区。)
(グラウンドに、管理境界みたいな何か、あれがありますよね)
役人が、どこが公園で、どこが学校だとか、変なことを言いに来るからね。一遍だけ塀を建てたんだよ。それで写真をとって、塀は外して、杉十のある部屋においてあるんだよ。今は何度もグラウンドをいじってるから、だんだんなくなってるけどさ。
緑は時間が経ってもすばらしいけど、建物は30年経つとみすぼらしいよ。僕の専門は「防災」と言われるけど、結局、都市に緑を作ったんだよね。
四日市の時のやつは、公害防止事業団ができて、工場と市街地の間に森を作ったんだよ。日本中に51工区か52工区作ってるんだよ。四日市には三つあるからね。
たとえばこの間の、市原での火災は、要するに距離があるから大丈夫だって言ったんだよね。その距離を作るのはモノの関係で、役所はモノの関係って苦手なんだよ、お金いらないんだから。
(何もない空間を作るのは難しいんですね)
そう、これがね難しいんだよ。ボイドの都市論っていうの有斐閣かなんかで、ゆとり論なんて書いてたもんだから。なんか酔っ払いの画家がいて、ユトリロとか。みんなにバカにされて、東大でそういうあだ名が付いちゃってさ。
杉並第十小学校
(出典:Google Map)
杉並第十小学校
旧蚕糸試験場跡地利用基本構造図
(出典:都市防災計画論)
◇都市防災
高山先生に会ったとき、「もし君が今日俺のとこでやると決めたら、今日から第一人者だからね。」って言われたんだよね。「今日から?!なんじゃこりゃ」と思って。しばらくしたら、損保会館の災害科学研究会に、高山先生が僕を代わりに入れちゃったんだよ。そこは各専門家の大先生が一人ずつ入っていて、地震も何とか先生で、気象も何とか先生で、つまり二番目の先生がいないんだよ。それで、なるほど、第一人者の中にいるから第一人者なのか、と。大変だよ。
昭和44年に江東防災が動き始めたときに、突然NHKの防災担当になって、「あすを作る」っていう番組を作ったんだよね。僕は一番若手で出たけど、その頃テレビなんか持ってないからね。テレビに出始めてもね、相当長い間テレビ買わなかったんだ。それで、NHKの人が村上君を防災担当で使いたいって言った時に聞いた説明が、たとえばポリオのワクチンを世に問うために、どこかの大学の助教授を使って、その顔がぱっと出てると、ポリオワクチンの話だなぁと分かればそれでいいって言って。そっか、顔が出ればいいんだったら、俺でもできる。
災害問題っていうのはね、建設省と消防署でできるなんて思ってたら大間違いっていうのがアメリカの考え方。結局なぜ火災になるかというと、人間の心理で火つけられちゃうとか、放火とか、いろいろあるじゃない。そうすると、これは労働問題だから、労働省がパートタイムの人を雇う時の仕掛けを作らなきゃいけないから、そこも関係あるとかね。アメリカの奴と付き合って、本当に勉強したのはそういうとこだよ。僕は千日(デパート火災)のレポートを持って行って説明したら、君たちの国は消防と建設で解決できると思ってるらしいけどそれは違うと言って、叱られちゃったんだよ。
アメリカの素晴らしい火災の研究の仕掛けを作ったのは、通産省系が握ってるんだよね。なぜかというと材料には燃焼毒性があるんだから、材料を作る側がちゃんとしないと。日本の火災対策なんか、毒性の研究ってゼロだよ。
72年にアメリカはニクソンが、月に行ける力があるのに、なぜ建物の火災で人が死ぬんだってことを問いかけて、21世紀までに死者を半減させるプロジェクトを起こしたんだ。そのグループの取材に、NHKを連れて行ったことがあるんだよ。何を言われたかというと、この仕掛けは今年でやめるというんだよね。やっぱりもっと本気にならないとできないって言ってんだよ。ワシントンに人を集めてできるもんじゃない、地方の研究所とか地方の大学と、地方の百貨店で売ってる家具とかなんかで考えないといけないから、やり方を変えるって。それが今のFEMAの始まりなんだよ。
◇千日デパート火災
災害の研究始めたのはね、1972年の千日の火事だよ。
(これ、授業で必ずやりますよね)
僕は現場に入った時、まだ96体転がってたんだよ。それで、ほとんど焼けてないよね。
(これよく覚えてます。授業のとき少し暗い部屋で、衝撃的なシーンが次々と)
この現場に5回ぐらい入ったんだよ。現場って、一回見て分かったつもりでいたら、何も分かっていないということが分かってきてね。だから、回数見ないとダメ。世の先生方は、一回目見たら大きなツラしてるけど。
この時の消防の調書というものが、あるとき机の上に置いてあったのを見つけたんだよね。「これ、ほしい!」って言ったらさ、「やるわけいかねぇなぁ、だけど、ちょっと今から席外すから、拾っていけ!」。そのおかげで、細かくいろんなことわかっちゃって、それでレポートを作ったんだよね。
高山先生によく言われたよね、「あんまり速く行くと、お前がやったみたいだよ!」
(必ず火災現場に村上先生がいるとかね)
だから、みなさんに何をしゃべってるかというと、講義でも、現場のことを、普通じゃ見れないようなことを見せるしかないなぁと思って。
千日デパート火災
(出典:都市防災計画論)
◇地理情報システムのはじまり
1978年にアメリカの調査団が僕の事務所に来たんだよ。その時、「横浜の危険エネルギー」を見せたんだ。これは、都市の中にいろんな危険のポテンシャルがあるものを地図の上に落したものと、都市安全管理システムっていうデータを活かして考えるシステムの表があるんだけど、それだけ見せた。そしたら、「アメリカでは、行政が持っているデジタルデータを予算化するには、将来の活用の展望が見えないと付かない。これだと完璧に付く。」って言うんだよ。それで、GISのことが始まるんだよ。
79年には、もうアメリカのチームが日本に来るようになるんだけど。それも、アメリカの連中が「一緒にやってくれ」って言うから、いいよって言って。そうすると、1979年からアメリカのチームが日本に来るようになった。だけど、日本側は受ける体制ゼロだからね。それで高山さんのとこに相談に行ったら、三人で墨で手紙を書いて、これ持って行けって。日本テレビだったね。それで400万円ぐらい出してくれたんだよね。
危険エネルギー(出典:横浜市)
危険エネルギー(出典:都市防災計画論)
最初、「危険エネルギー」作った時に、これをデジタル的に使う仕掛けを作ろうと思って計算したら、横浜市の予算の7割を使っても10分の1しかできないって。それが今やテーブルの上にのっちゃうんだからね、恐ろしい時代だ。
このことがあるから、ESRI社長のジャックが信頼してくれて、横浜国大でのGIS教育を支援してくれたんだよ。
(アメリカにはGISがなかったんですか?)
サンフランシスコのオークランドのあたりにある、カリフォルニア大学のオークランド分校の連中とクリスアーノルドと僕と、IBMとやったんだけど、結局、IBMはものすごく大変だっていうのはわかって懲りたんだよ。それで1997年までIBMはずっとアメリカのGISに参加しなかった。初期の頃はちょっとしたことをやろうと思っても大変だった。東大の大型計算機を使ってなんかやっても、とにかくエラーが出て終わりだよ。何にも前に進まないんだよ。
(バージニア工科大学との連携のはじまりはどんな感じですか?)
クリム・ゴールドとかね、アメリカのNSFの災害研究の担当官だったんだ。アメリカの人と付き合い始めた1979年から、彼と付き合い始めた。僕が国大の先生になる直前ぐらいに、彼が「バージニア工科大学の先生になるから、お前、国大の先生になるんだったらなんかやろうよ」というところから始まって、学生の米国研修や交換留学とかね。それを思いついたね。
◇超高層の排煙システム
NHKと一緒に世界の都市災害っていう取材に行ったことがあるんだよ。最初はシカゴのシアーズタワーの工事現場で、シャーマーさんという、防災計画というか、安全計画をやった方から取材して。取材後に、千日のレポートを見せながら、シアーズタワーがどうやって煙の熱ひずみから逃げるように工夫しているか聞いたんだよ。つまり、排煙ダクトの中にあったかい煙が入ると、のた打ち回って、ぐちゃぐちゃになっちゃうんだよね。それを、熱ひずみから逃げるようにしておかないと、うまく作動しないんだよ。
(降りないですね?)
ダンパーが閉まらない。そういうことを全部教えてくれてね。それを最初に日本でやったのは野村ビルだよ。
野村ビルは高山先生が建設委員長だったんだよ。「村上君、超高層も10本目を越したんだから、ちょっと違うことやろうよ。君がこの間シアーズタワーで見てきたことをやれ」って言うんだよね。それで、シアーズタワーで習ったことを全部やったんだ。だから、あそこの建物は、避難階段の扉を開けても変な風が起こらないんだよ。よその超高層だとピューと吹くけど、あれ全然ダメなんだよ。そういうのを、ぴたっと空気が動かないようにしなきゃいけない。
(なんでみんなならないんですか?)
簡単なことができない。アメリカ大使館なんかちゃんとやってるよ。例えば、パイプシャフトの穴埋めなんて、アメリカ大使館は柔らかいもので詰めちゃってるんだよね。ところが、日本は不燃材のセメントで詰めなきゃいけない、と。そうすると、いずれまた新しいパイプが入るかもしれないからって埋めない、それで、そのうちに火事になるんだよ。
◇博士論文
高山先生がお前まだ博士を持ってないなぁとか言ってね。50になるまでとるようにって言うんでね。何でだと言ったら、50になったらもう細かい字読めなくなるって、変なこと言って。それで、そしたら川上先生という先生が、下に助教授でいたんだけど、村上君、今まで書いた原稿を時間の順番に持って来いと言ったんだね。で、原稿を束ねて東大に持ってって、これとこれ順番を変えたほうかいいとかね、ここは削れとかね。そんなこと7回くらいやったら、もういいって。それが博士論文で、都市防災計画論の本体だよ。
都市防災計画論
◇オープンスペースのデザイン
講義でもしゃべったかもしれないけど、アルジェリアなんてね、ジャン・ボッシュっていうコルビュジエの弟子が、50何年、復興計画やったんだけど、その時に隙間のデザインやってんだよね。要するに、オープンスペースの連続のつながりとかなんか。でも日本はできない。オープンスペースって、道路とか、町とか、公園とか、いろんなところのつながりだから、塀は作っちゃいけないんだよ。だけど、日本人はなんか管理したいもんだから、すぐ塀作って、鍵かけて。公園はここですっていってるけど、まあ、そんなのは公園といわないって言ったんだよ。公な園ってのは、そんなもんじゃないよ。どこからでももぐりこめなきゃダメだっていって。小学校だってそうだよ。杉十なんて塀がないからね。大事件なんだけど、今もうなんとなくおさまってるね。だから、よくものを観察することだよね。よく考えて。その考えるための道具として、GISなんか考えてたんだけど、これあまりに出来が良くて絵がきれいなものだから、頭使わなくなっちゃったんだよ。横浜国大にいる時から、その危険を感じてさ。お前ら何やってんだって、言ったことあるんだけどね。頭使うために、これ使わなきゃいけない。これをしもべにしなきゃいけないのにさ。GISのしもべになってるよ。きれいな絵を入れて出しときゃ、論文通るとかね。これはね、やっぱり、一番の問題だね、今。
◇地震直後のお金の使い方
アメリカの、FEMAっていうのが、地震直後のお金の使い方ですごい大事なこと書いたんだけど。みんな気づかないんだよ。要するに、組織とか、人間とか、そういうのが動きやすくなるために、ギアとしてお金を使うとかね、歯車として。使い方を間違ったら、モノはなんかできるかもしれないけど、地元の業者がほとんど仕事もらってないよ。阪神・淡路大震災がそうだよ。震災の10か月後ぐらいに、15人ぐらいぞろぞろ阪神から来たから会ってみたら、弁当屋さんとか警備屋さんとかね、全部神戸の事業者で、何も仕事もらってないって。僕は、まあ、復興委員会とか入ってたから、発言力あると思っていろんなこと言ったけど、でももう何もできないんだね。日本の社会って、一遍こう駄目に走り出したら、修正がきかない。そのとき、弁当屋が何言ってたかって、今でも覚えてるけど、「私たちに任せてもらったら、3日目からできました」って。それを全部京都とか大阪の業者から避難場所に運んでた。その弁当が有効に使われたかっていうとそんなことなくて、避難場所の廊下、なんか匂いするからおかしいなと思ったら、みんな食べない弁当積んであるんだよ。
(食べないですか?余ってる?)
要するに、必要以上にもらっちゃってるんだよ。いつもらえるかわからないから、新しいものまたもらうんだよ。それで、捨てるチャンスがないから置いてあるわけ。それを捨てる作業やったんだよ。ものすごく膨大なゴミが出て。そうやってお金使っても全部無駄になってんのにさ。アメリカはね、クーポン券渡すんだよ。食べれない人はクーポン券どんどん余っていくわけよ、だから、ボランティアで来た若者に渡せばいいんだよ。近所の飯屋で使えるからね、そうすると、近所の飯屋も一応お金入るしね。
1984年ぐらいに、ロスの真面目な黒人の市長がいてね。こういう直下地震っていうか、被害区域が、非常に狭くて、激しいけれども、注意しないと、被災地にお金が落ちない。いかに落とすかが大事。台湾でも地震が起こった時に、李登輝総統が次の日にテレビで何を言ってるかっていったら、もう台北とか台南の業者は要りません、地元でやるように組み立てますって。だから、終わった時には、みんな働いた分のお金が自分の土地に入ったんだよ。でも日本の場合そうじゃないんだよ。その辺の金の使い方が間違ってる。阪神の時にもしゃべったし、この間の時も、国会にいってしゃべったりしたけど、みんなできない。アメリカの連中は、非常時は、大変なことが起こったんだから、その間ちょっとだけ「窓が開いてる」という言い方してるんだよ。その「窓が開いてる」時にやればできるのに。
要するに、向こうの地震対策は、危機管理の一つなんだよね。火事もあるし、水害もあるし。要するに問題は、本人たちを意識させる仕掛けだよ。たとえば、国分寺のハザードマップを見て、アメリカのやつはこれがすばらしいっていって、4色で塗ってきたんだけど。日本の国分寺は地盤の仕分けが11色だよ。地盤の先生がうるさいからそうなったんだけど、住民に知らせるっていう精神がない。アメリカは「危ない」、「危なくない」、「真ん中」だよ。だから、きっと「これはどっちに塗るんだろう?」とか、分類は難しいよね。だけど、そうやって塗らないと、一般の人が理解しないっていうのがアメリカだよ。ところが、日本は細かく学問的に精緻に致せばいいという。要するに、住民なんか知るもんか。勝手に勉強しろって。こんなこと言われたって、わかる人いないよ。
◇若い人へのメッセージ
今年の広島の土砂災害でも、現地に行って歩いている先生が見つけてきたことっていうのがね、一番大事なんだよ。それやれないのにしゃべっている専門家っていうのはね、本当に軽率でね、話にならん。だから、現場に行って、見て、話を聞いてこないと。僕、昔は「行かない現場の話はしない」って、NHKに宣言したんだ。でも、ある時からそんなこと言ってられなくなってきたんだけど。だからね、たとえば電気事業法なんていうのはね、思いのほかよくできてんだよ。これがなんじゃと思って調べたらね、明治時代に、木造の国会議事堂が漏電が原因で焼けちゃったんだよね。その時の調査で、電気の先生が現場に行って、いろいろ調べて、いろいろ考えてるから、かなりよくできてる。あれが頭で考えただけだったら、そこまでいってないと思う。今はあまりそんな電事法なんか読んだことないけどさ。どんどんいい加減に変えられて、骨抜きになってるかもしれないけど。なんでこんなによくできてんだろうなぁと思って、やっぱりそれを作ったグループの先生方が国会の火事の現場に行って、体験してきたことでいろんなことやる。だから、現場見るって本当大事なことでね。
(今日はありがとうございました)
最後に記念撮影!
村上先生の事務所(防災都市計画研究所)に来たら、やはり定番のアジャンタのカレーライス。
◇村上處直先生の来歴
1935年、名古屋市生まれ、広島育ち
1960年、横浜国立大学工学部建築学科卒業。在学中はグリークラブに所属
1962年、東京大学大学院数物系研究科修士課程修了(建築音響工学を専攻)。博士課程に進学予定が 恩師の急死により、建築史研究室に研究生として一時在籍
1962年、東京大学工学部都市工学科が発足し、高山英華研究室に移籍、都市防災を専攻する
1965年、博士課程単位取得。退学後高山研究室特別研究員。江東防災再開発計画づくりに参画
1970年、防災都市計画研究所を設立。
1974年、「防災拠点等の防災都市建設に関する一連の計画」で、昭和49年度日本都市計画学会設計奨励賞
1985年、工学博士
1988年、横浜国立大学工学部教授就任
2000年、横浜国立大学を退官。防災都市計画研究所代表就任
2001年、早稲田大学理工学総合研究センター教授
2004年から、日本大学生産工学部非常勤講師、早稲田大学客員教授
2005年-2007年、危機管理システム研究学会会長
主な業績
・白鬚の防災拠点整備計画、東京都江東再開発基本構想推進
・大蔵省国有財産中央審議会・都市及び都市周辺における国有地の有効利用答申、跡地利用の基本方針作成に参加
・筑波移転跡地小委員会委員・跡地利用計画大綱策定、杉並区蚕糸の森公園の計画等
主な著書
・地震と都市
・市民のための災害情報 (早稲田大学理工総研シリーズ、 難波桂芳・尾島俊雄らと共著)
・都市環境(新建築大系9、彰国社、1982、根津浩一郎・増田康広らと)
・地震と人
・都市防災計画論、同文書院、1986
◇インタビューを終えて
朝野佳伸(平成6年卒)
村上先生とは大学院二年生の時のバージニアへの研修の際、カナダ経由の別行程で同行し寝食を共にさせていただいたことや卒業後に神戸で行った結婚式にお忙しい中ご出席いただいたことが私の特別な思い出として心に残っています。
また、就職の際にはご尽力をいただき、有難いことに希望の会社で働くことができました。それにも関わらず勝手な都合からその会社を退社して故郷に戻ってしまい先生に大変なご迷惑をお掛けしました。
それ以来、何と無く研究室から足が遠くなっていた時期もありましたが、最近では共同研究をさせていただく機会を得て、私の中で研究室との距離が以前より近くなりました。以前、先生の退官時の最終講義に行けなかったことを後悔していたので、一昨年の喜寿の会には思い切って出席させていただきました。そこで先輩後輩の皆さんと久し振りの再会を喜ぶと同時に、それが縁で仕事の上でいくつかの新たな展開が生まれました。
卒業から数十年も経った後、先生の元に集まった多くの教え子達が現在の仕事で繋がっていく喜びを実感し、本当に有難く嬉しく思っています。
今回の水煙会の企画に参加させていただき、先生のお元気な姿を見ることが出来ましたこと感謝しています。
吉田 聡(平成7年卒・平成12年博士修了)
「いい加減」
私の在学時代、村上先生はたびたび「『いい加減』が大事なんだよ。」とおっしゃっていました。「いい加減」という言葉は、「なんて、いい加減な奴だ!」とか、ある意味マイナスの表現で用いられたり受け止められたりしています。当時私は特に研究に没入していたわけではないのですが、なんとなくこの言葉の意味を「手を抜くことも大事」くらいに思っていました。しかし、年齢を重ねるうちに、この「いい加減」という言葉には深い意味があると思うようになりました。また今回、村上先生を訪ねてお話をうかがい、「物事に深く入り込むことも必要だけど、一歩引いて俯瞰して全体を捉えることも忘れないバランス感覚が大事」という意味なんだろうと感じました。村上先生は、お父様が物理学者で、ご自身も大学院の修士課程まで建築の音響工学を専攻されていたということで「理工学」的に災害現象を捉えることも実践されましたが、災害は時間と空間の中で物と人が関わりあう中で起こるため、単に物理現象として捉えるだけでなく、人の心理や行動、そしてその背景となる社会・経済のシステムなど多角的な視点で捉えることを重要視されてきました。そう、「いい加減」で。
今回改めて考える機会になった「いい加減」という言葉の真の意味を、これから大学教育の中で学生たちにきちんと伝えていき、「いい加減」の人材を世の中に輩出していけるように努力したいと思います。