第3回 山田弘康(やまだひろやす)先生

山田先生の近影

 

 「ラグビーワールドカップの日本が出場する試 合が終わってからが良い」という返事から、日 本敗退が決まって一息ついた11月10日に上郷町 にあるご自宅(基本設計:山田弘康、実施設計: 増田実、北出健展、三井島文子)に卒業生5名 でお伺いしてきました。前面道路には山田先生の筆跡と思われる丸文字が切り抜かれたアルミアングルの「山田」表札があり、私達を迎えてくれました。

 

 山田邸の竣工はいつ頃なんですか?
山田 定年になる2年前の1998年です。部屋数 は3人の子供を入れて5人の住宅として造ってるけども、僕たち夫婦が年を取っても大丈夫 なように設計しました。例えば南面にある22 メーターの廊下ですが、もっぱら散歩っていうか歩数計の歩数を稼ぐのに使ってます。

 

 わざわざ遠くしているのですか?
山田 それはないけど、2,000歩ぐらい歩くかな。雨が降ると、500歩も歩かないことがある。 歩けるから体にはいいんじゃないかって。幅は車いすも通れるサイズになってる。

 

 この廊下とリビングが一体になっているの ですが、木の柱で緩やかに分節されているのが違和感がなくとても心地良いです。
山田 建具で仕切る廊下タイプにしないようにしました。中庭が外のリビングで、廊下空間 があって、室内のリビングという構成です。


 普通は北側に廊下があって、南側にリビング と考えそうですが逆になっていて、廊下が一 番明るいですよね。
山田 冬はかなり奥まで日が入るからリビン グも暖かい。夏は庇が遮ってくれると思っていたけど芝生の照り返しがあるので、妻はレース のカーテンを閉めてます。

 

 今日も快適な温度ですが、冬でも暖かそうな感じですね。
山田 ペアガラスにカーテンを閉めているので、夜もそんなに寒さは感じないです。床暖房はランニングコストがかかる割にそんなに温まらなくて、メインの暖房はエアコンに変えました。7.5キロのソーラーパネルを屋根に載せ、さらに太陽熱で温水を作るシステムも導入しています。だからCO2に関しては完全にゼロ以下になってます。


 家も住みながら少しずつバージョンアップ されているようですね。普段はどんなことをされて過ごしているのですか?
山田 20坪の土地を借りて家庭菜園をやっていました。ジャガイモも作ったし、トマトやインゲン豆とかいろいろ作ったけど、夏は草を毎日取るのが大変だからついに止めて、もう5,6年経つね。最近は甘夏とか、ブルーベリーとか、果樹。要するに、「果報は寝て待て」というふうにしました。(笑)ブルーベリーなんて 何キロも採れて、採るのも、採ってからもジャムにしたりして大変。梅はジャムやジュースにしたりしています。  

 それと、厨子仏壇を最近つくりました。4,5年前から考えていたんだけど、仏具とか位牌 は母がくれたんです。40年近くタンスの上に置いていたのが気になり始めて、年のせいだろう ね。ただ、普通の仏壇をこの部屋に置くわけにはいかないし、普段人の居ないところに置くのも仏壇に失礼でしょ、だからこの部屋に調和するような厨子を設計して作ったのがそれです。

山田先生設計の厨子
山田先生設計の厨子

 厨子の設計はどのように進められたんですか?
山田 大体、今の形にまとまってきたのが2018 年の暮れから2019年の初めで模型を作って検討 しました。4月に発注して半年ぐらいで出来上 がってきました。厨子は移動式で下にフェルト を張って動かす前提になっています。冬は和室 のほうに持っていって西日が入るような形に、 春から秋はリビングに置いて、北側の竹やぶを 背景にした厨子、そういう風景を作ろうと思ってます。
 今でも模型作って検討をしてるというのは素敵なお話ですね。 我々は山田先生の退官される頃に在学していたのですが、山田先生の20代ぐらいの話は 知らないので、お聞かせいただけますか?
山田 確かに今まで若い頃の話はあんまりしたことないですね。せっかくなので人生を古代イ ンドの四住期(学生期、家住期、林住期、遊行期)という人生の4区分に合わせて、それぞれの時期にどんな事があり、それぞれをどの様に考え、対処し、生きてきたかを話しましょう。
 

ぜひ、お願いします。
山田 「学生期」から話しましょう。僕は経済学部を最初受験しました。ところが不合格。(笑) 高校を卒業する1月に、自宅が火事で全焼した わけ。そういうこともあったのかもしれないけ ど、とにかく落ちちゃった。実家は物販関係の仕事をしていたから、経済をやっても問題はな いだろうという判断でした。浪人生活に入った ら、僕の高校の同級で仲のいい小能林宏城が映 画監督になりたいと日大の映画学科に行ったのですが、建築の設計が面白そうだと言い始めた のです。どうやら友人の父親がフェリスの校舎等を設計した建築家だったようで、その影響を受けたみたい。あっさりと小能林は日大を辞めちゃった。僕も建築は面白そうとは思っていま した。親父がここに家を造ったときに、僕は小学校2年で、つくる過程を見ていて面白かったわけだよ。じゃぁ、建築やろうということで、 今まで経済学部を考えていたから文系と理系で勉強が全く違うでしょ。急きょ、数学の勉強を始めてなんとか横国に入れた。そんなことで建築人生が始まった。

 当時の横浜国大建築学科は、古いRCの2階 建てが1つあって、その先に河合正一先生が設 計した建築学科棟を造る予定で、ほとんど主要部分は何もない状況でした。木造の中央図書館 2階が製図室に転用されていたのですが、施設 はすごく貧弱でしたね。教科目制の学部だけの 大学でしたが、建築学科は必修の科目を取るだけで卒業に必要な単位が取れるぐらい専門教育に力を入れていた学科でした。

 僕は大学7期です。大学創立時からの教授が ほとんどで、構造の江國正義先生が2代目学長になり、大学席へ移っただけでした。日本橋高島屋本店、銀座服部時計店の構造設計者で創設 時のキーマンとして一流の人を集めてきました。江國先生はデザインに理解がある方でしたね。やる気満々の教授陣でしたが、施設は貧弱でした。

 建築設計は、昔は設計製図と呼んでいた。当時の設計製図は、語学とか図学と同じ一般教育の位置にありました。だから、建築学科の専門科目には設計というのがないのです。「環境」、「構 造」、「計画」、「歴史」の4つが中心で今でいう4講座。その4分野の教授のみで設計の先生は いない。講義中心はどこの大学も同じです。

 そのため、設計製図は講義系、つまり環境、 計画、歴史構法の先生が担当していました。助手は学科で計画と構造の2名、設計担当の非常勤講師はゼロでしたから、大変だったと思います。ガリ版刷りの課題から採点までのプロセス は簡略化されがちでした。夏休みの宿題が少しよくなった感じです。先生によって設計の考え方、建築像は違うし、提出図面だけの採点もありました。卒業設計の採点がその典型で、模形はなくて製図台に置かれた図面を随時見にきて、教授・助教授が採点して終了でした。

山田邸でのインタビュー風景
山田邸でのインタビュー風景

 教授陣の前でプレゼンはしないのですか?
山田 発表会はありません。だから講評もしない先生、講評を何人か選んでやる先生、色々でした。それが学部の設計教育でした。

 卒業頃になると就職を考えるよね。先輩たちは大手か中規模のゼネコン、材料メーカー、設備メーカーに就職し、設計事務所の情報はな かった。どうやって設計に行っていいか分からなかったので大学院へ行こうと思ったのです。 河合先生に相談したら、「磯崎新を紹介するか ら聞いてこい」となり、聞きに行きました。東大にも設計講座はなく、丹下健三先生は都市計画 の助教授でした。建築計画は本郷の吉武泰水 先生、鈴木成文先生、生産技術研究所に池辺 陽先生がいて、設計関係はその3つのどこかですが、原広司や宮脇檀のように構法や都市計画 を選ぶ人もいました。磯崎さんには設計分野の話を聞いただけで、入試と面接で池辺研究室に進学しました。池辺研は高校同級生の小能林と2 名でしたが、久しぶりの院生だったようです。上はオーバードクターの佐々木宏さんだけでした。


 池辺さんというと著名な建築家と思うのですが、大学院はそんなに少ないのですね。
山田 当時は少なかったね。僕の頃までは修士 は20名以下でしたが、翌年から増え始め、4年後には30名になります。横浜国大に大学院が出来たのはこの頃です。1957年のソヴィエトによ る、人工衛星効果はまだでした。池辺さんも頑張ろうと思ったのか、私達にも実施設計の担当 を決め、設計事務所のようでした。「研究室会 議で毎週報告」となりました。池辺研がある生 産技術研究所は、西千葉の昔の東大第2工学部 にあった。西千葉は不便なので、虎の門に事務所を借り、設計の拠点にしていました。私たちは本郷、西千葉、虎の門が1週間のスケジュー ルとなります。研究室先輩の佐々木宏さんが雑誌『国際建築』の編集者を知っていて、原稿を書かないかと僕たち新人に声をかけてくれたのです。僕たちにしてみれば、面白そうな話でし た。学部卒で実施設計について何も知らないの に、住宅の実施図を描けと池辺先生からは言わ れている。特に小能林はジャーナリストっぽいから喜んで論文執筆の方に行っちゃうわけ。そ の頃、メタボリズムの活動が始まっていたので、 まずそれについて書きました。それが入学した 1959年で、『国際建築』7月号に発表されたの ですが、「池辺研究室大学院」なんて誌面にあったものだから、池辺先生が怒っちゃったわけ。 その次の論文も執筆する内容は既に決まってました。1960年の東京デザイン会議に来るイギリスの建築家を佐々木さんが、アメリカのルイス・ カーンを小能林が、ポール・ルドルフを僕が書くことになって、いろいろと調べてました。池辺研の住宅の実施設計をしっかり書いていれば いいのだろうけど、設計もろくにできないのに 翌年4月の雑誌に文章載せたりしたので、ますます怒っちゃった。小能林はしばらく研究室に出てこなかったから、僕が「研究室会議に顔出したらどう」って誘ったら出て来た。そしたら池辺先生に、「研究室に顔出すな」って怒られた。 だから、彼は来られなくなっちゃった。

 

 今やパワハラだの、アカハラで大問題になりそうな話ですね。
山田 ドクターの佐々木さんも来ないし、小能林も来なくなっちゃって僕一人になっちゃっ た。一人なので、実施設計、調査をやり、修士論文を書いて、ドクターに進んだわけです。大学院の修了式にも出られませんでした。次の年に横国から鈴木美治君が入ったのですが、顔も見ない状態でした。池辺研に入ってくる院生が 毎年いるようになると、池辺研究室の体質を変えようじゃないかという提案が出てきた。僕が 年令的に上だから、担がれそうになったけど、 前例があるので研究室をクビになるかもしれないから気が進まない。だけど、その噂を池辺先生が聞いたのか、研究室会議に行ったら、「おまえ出てくるな」となった。だがら、僕も研究室に行けなくなり、河合先生に相談に行ったら 「横浜国大に来ないか」ということで横国に戻ったのです。学生とコンペをやったりしていたのですが、いつまでもそんなことをやっているわけにはいかないでしょう。

 

 はい。つまり宙ぶらりん状態ということです よね。
山田 将来何者になるか分からないという状 態。日本の中で行くところはないならアメリカ 留学でもしようかと考えた。当時は留学情報な んて全くないから、海岸通りの旧アメリカ領事館にあったACC図書館でアメリカの大学の住所を調べてアプリケーションフォームを取り寄せたのです。

 

 どこの大学のですか?
山田 僕が割と知っているアメリカの大学は ハーバードとMITとイェールしかないからそ の三つです。アプリケーションフォームが欲しいこと、奨学金がもらえそうかどうかを各大学に書いて送りました。その中でイェール大学には僕がポール・ルドルフのことを国際建築に書いたから、それも同封したのです。一応全部から返事は来たのですが、奨学金がもらえそうな のはイェール大学だけだった。それでアプリケーションは年末ぐらいにイェールにだけ出しました。そしたら翌年の1963年2月に返事が来た。入学許可と、ローンも含めてだけど、1,500 ドルぐらいの奨学金をもらえるということが書 いてあった。それで行くことに決めたのです。 入学可能の手紙を持って河合先生に報告に行き ました。その帰りに利用する京浜急行が止まっていたんです。どうやら原因は火事みたいで、 線路からは離れていたのですが、実家が隣から の延焼で燃えちゃった。

 

 これまたすごい展開になってきましたね。 全焼したのですか?
山田 全焼。それで、迷ったけど奨学金もらえるのだから行くしかない。渡航準備や英語の勉強をしました。9月にイェール大学がスタートするので、7月にアメリカのホストファミリー のところで少し言葉に慣れ、9月の始めに入学手続きをしました。1年間のマスタークラスに入って課題をやりましたね。ルドルフ設計の建築学部は新築ほやほやで、吹抜けの大空間にト レー状の中2階風の空間があり、10数名のマス ター学生は、大空間のコーナーを与えられまし た。秋学期はセージ・シャマーエフ、春学期は ポール・ルドルフが担当、戦前CIAMの事務局 長という老雄のシャマーエフは理念的な課題指導、ルドルフはアメリカらしく実務的な指導でした。私たちマスタークラスは一般的な5年制の建築教育に対応するコースで合計6年でマス ターの称号を得られる。これに対しイエール大学は、4年間のリベラルアーツと3~4年の建築コースの合計7~8年でバチュラーのみとい う不均衡な制度でした。このため後に、マスター の称号を同時に与える制度に変わっています。 こうした不均衡な制度が併置されているのはアメリカらしいところですね。イエール方式は、 スタジオ型指導といってよいと思います。

 私が横国でウォーターフロントの計画をやっ たのはシャマーエフの課題が同じくウォーター フロントで、そこに根があるのかもしれません。

イエール大学の卒業名簿
イエール大学の卒業名簿

 なるほど。横浜港再開発や川崎の扇島空港計画のきっかけですね。

山田 まあ、今思うとだけどね。ルドルフは ニューヘイブンの市庁舎とモーテルを設計課題としていました。彼は横国で教えていた坂茂さんと同じで設計の仕事をギリギリまでやってから大学に駆けつけるわけ。時間になると走ってくる。忙しいのに熱心で授業の手を抜かない。 締め切り前の夜、シャマーエフはビール持って 激励に来たりする。小さい町だからか先生が 自宅へ十数人の大学院生を呼んでくれるんだよ ね。シャマーエフは完成したばかりの自宅に、 ルドルフはタウンハウスの3階建て事務所兼自宅に呼んでくれて、いろいろと案内してくれた。 先生も学生とヒューマンな関係をつくりだそうとしている感じがあった。入学年の11月はケネ ディ大統領暗殺事件があったりして、終わりました。1964年6月に卒業したけど学校が就職探 してくれるわけじゃないから探さなくちゃいけない。そこで僕はフィラデルフィアのロバート・ ヴェンチューリーと若手のルイス・サワーに会いに行った。どちらも小さな事務所で所員が1 人増えてもやっていけない。

 

 はい、僕たちも似たような感じで設計事務所をしているのでよく分かります。
山田 「君、来たって採れない」っていうわけで、 両方ともダメでした。日本だと大学院卒をタダで 雇う設計事務所があるかもしれないけど、そこ は全く違うよね。大手の設計事務所で採ってくれるところもあったのですが、面白くなさそうだからやめて、それで大学のあるニューヘイブン に戻ってきました。そこにはイーロ・サーリネン 事務所があったのでアプライしてプラクティカル トレーニーの形で働くことになりました。丁度、 シザー・ペリがロサンゼルスの事務所に若手の 数人と抜けることになり、欠員が出たためのようでした。サーリネンは1961年に亡くなっているの ですが、EeroSaarinen&Associates.の名前でまだ事務所は存続していました。チーフデザイ ナーだったケヴィン・ローチが実質的に事務所を 継承し、ローチ自身の作品も完成していたけど、 サ-リネンの代表作であるセントルイスのアーチは、まだ工事中で、他にもサーリネンの設計で 工事中の建築もあった。ですから、ローチの作 品やサーリネンの建築改修などを担当しました。 ローチ事務所は80名位、デザインとワーキングの部門に分かれていて、私はデザイン部門のジュニ ア・アーキテクトとして模型づくりでした。設計は模形で進められます。
 ローチ事務所に2年半、辞めてから1年間は ヨーロッパを旅行して日本に帰ってきました。 シトロエンの2CVという乳母車みたいなの、あ れをパリで買ってヨーロッパを一周し、またパ リで売り払って飛行機代にして日本に帰ってき た。メキシコとヨーロッパで計25カ国ぐらい周 りました。

 

 すごいですね。昔の建築家はコルビジェもそ うですが年単位で旅行していて憧れます。
山田 アメリカで仕事しているときも車で国内 は旅行したし、ヨーロッパの大学のキャンパスも見た。ただ、1960年代のヨーロッパの古い町は古い大学ばかりだから、アメリカのようなキャンパス型の大学はありません。北欧には アールトらが設計したキャンパス型の大学がありました。1967年11月に日本に帰ってきて、河合先生に「帰りました」と報告したら、「すぐ 大学に来い」と呼ばれました。常盤台キャンパ ス計画がスタートしようとする時期、河合先生 が設計委員会委員長で、メンバーを探していた のです。母校のキャンパス計画に参画できるチャンスなんて奇跡だよね。

山田邸でのインタビュー風景
山田邸でのインタビュー風景

 

 まさしく渡りに船ですね。
山田 運がよかったんだね。ここから僕の「家住期」が始まるわけだ。家住期にあたる現役時代は34年間もあるので、なるだけ短く話すよ。 1967年11月からキャンパス計画を始め、計画の骨格を決めた1969年の1月に大学紛争が始まっ て、学生が大学を占拠しちゃった。計画は中断 したのですが、その7月に大学助手から建築学 科の設計意匠講座助手へ移りました。建築学科 は1964年から大学院計画を進め、年次計画で4 講座を8講座に増やしていました。最終年の 1969年にできたのが第8講座・設計意匠講座で す。「計画」ではなく「設計」がはじめて専門科目になったのです。

 

 そこが8講座の原点なのですね。
山田 設計講座の名称は、当時は、横浜国大と東大にしかなかった。普通は「建築計画」とか、 「計画1」、「計画2」という名称だった。河合 先生が「設計意匠について」という学位論文を書いたので、設計意匠という名称になったらしい。東大は芦原義信先生が、建築設計の講座をつくっています。

 横浜国大に戻ってやったことは大きく4つになります。1つはキャンパス計画。学生ストは 半年ぐらいで終わったけど、基本設計をほぼ完了させ、実施設計は溝口長男さんが中心になった。キャンパス計画の延長には1977年完成の建築学科などの設計があります。

 2つ目は、建築設計教育に横浜国大らしいかたちを創ることです。大学紛争によるカリキュラム一新の動きにサポートされています。

 3つ目は、河合先生と約束した学位論文です。 丹下先生だろうが、清家先生、池辺先生だろうが、建築デザインだけで教授になった人はいないと。全員、学位論文を書いているのです。何とかなるだろうという考えとは違い、設計分野の人間には向かない作業でした。

 4つ目は大学教師が考えなければならない日常的な教育研究活動です。
 

 2つ目の設計教育の話ですが、山田先生たちが作ったカリキュラムは私たちが受けていたものですか?
山田 そうですよ。必修だけで卒業できる大学を変えなくちゃということです。設計製図も3年の前期までと決まりました。河合先生はキャ ンパス計画で忙しいから、僕も最大限の発言をしました。必修が半分ぐらいになっているよね。 設計製図は設計の講座ができたのだから、8講 座でやればよいという声もありました。一つの講座で3学年を見るなんて無理だよね。建築計画、建築史、都市計画、材料構法、設計意匠が入った設計製図小委員会を作ったのです。講座ではなく委員会という組織が設計教育を担当する「かたち」にしました。

 

 確かに設計の授業では建築計画や都市計画、 歴史、環境系の先生からも教わりました。 これって横浜国大独自の設計教育ですか。
山田 そう思います。講義系の先生方の協力はどの大学でもやっているでしょう。重要なのは建築設計という共通目標を持った組織が建築設計を担当し、卒業設計発表会を始めとする横浜国大独自の設計教育活動を進める母体になったことです。機能や材料、構造、環境は建築設計を支える重要な基盤ですから大切ですが、設計はそれらを超える何かを必要とする行為だと思います。

 

 横国では設計以外の先生方も卒業制作で講評 や採点に来てくれるのですが、あれが普通だと思っていました。今は構造の先生も来ていると思いますよ。今思うとですが、建築学科が総出で卒業制作を講評するってすごい仕組みですよね。素晴らしいシステムだと思います。
山田 そう思います。3つ目の論文はそれなりに忙しかったから、いかに効率的に書けるかを考えたんだ。

 

 その方法は私も知りたいです。(笑い)
山田 当時の私には時間がありませんでした。 データがないと説得力のある論文は書けませ ん。実験、調査、文献渉猟などの時間をとれな い。図書館で見つけたのが「越前国宗門人別改帳」、活字になった近世日本のビッグデータで す。細切れの時間を探してコツコツと論文を書きました。分析・考察方法は構造論などを参考に考えました。狙いは論文の「あとがき」に書きましたが、サーリネンやルドルフの建築論を 読み、自分なりの建築理論を生み出せないかが 目的でしたが、論文はそう甘くありません。ただ表層を眺めただけで終わりました。

作品や小論が掲載されている本
作品や小論が掲載されている本

 

 なるほど。どのような研究を続けるのかそれも大きな決断が必要ですね。
山田 大学院の設計教育もあります。20世紀は学部が大学の中核組織でしたが、21世紀は大学院が中核組織となり、教師も大学院教授と呼ばれるようになりました。北山先生がY-GSAを考えたのは時代の流れなのでしょう。前に話した学部の設計製図小委員会はY-SAと呼んでよい組織かも知れませんね。

 

 私たちの時代はM1では前期、後期とも非常 勤講師の先生方に設計を教えてもらっていまし た。
山田 私の時代は小講座制で、研究室に非常勤 講師の枠があったので、講師にお願いしていましたが、常勤と非常勤の担当をどうするかは悩 むところでした。私が空港計画などで大学院を 担当すると講師の方を無視することになりま す。学部・大学院・常勤・非常勤を問わず設計担当教師はプロフェサーアーキテクトなのです。設計教育では建築のあり方を考える基本設計を中心とし、実施設計は課題の中心テーマに しない方が良いと思うのです。

 

 池辺研で実感してますからね(笑)
山田 そうですね(笑)。私としては、研究室で学生とプロジェクトをつくるのはよいけど、 実施設計は行わないと決めたのです。ウオー ターフロントのプロジェクトは院生と幾つかやりました。中心テーマは環境のあり方です。設計教育は機能や技術・材料の集合体ではない、 それらを超える建築と都市と自然環境を教師と学生が協力して考える場だと思うのです。

 

 今でも大学で実施設計をやっている研究室は 多いと思いますね。設計教育のあり方にも関心があったんですね。
山田 河合先生は設計意匠講座をつくった。 「設計」の名称を持つ専門科目の始めです。僕はその後を継いで、「設計教育に一つのかたち」 を与え、どの様に実施したら良いかを模索してきました。最後はマンネリ化し・惰性化してきたので定年は良かったと思っています。

 

 これから「林住期」と「遊行期」になるわけ ですね。
山田 定年後の生活ですね。退職後も、しばらくは役所関係の委員会に出ていました。それらを75歳くらいで全部辞めたら軽い脳梗塞になっちゃった。今もちょっとだけ後遺症があり、言葉が出にくい、小さい文字が書きにくい、目も弱くなりました。車は子供にまかせました。僕にとって林住期と遊行期の違いは車を運転できるか体調を保てるかのようです。老化と体調問題もあり、若い時の行動力とは段違いです。こ れからは二足歩行がたよりです。庭の管理の他に、遊歩路を歩いたり、自転車で買い物に行ったり、時々、関内へ映画を見に行ったりします。 外出が減り、廊下歩きが雨の日の運動になりました。

 

 長時間ありがとうございました。お話の大部分が知らない話でした。横国大常盤台での設計教育の源泉を発掘できた感じで新鮮でし た。その考え方は北山、西沢立衛先生へとしっかり受け継がれていると思います。

2019年11月10日

インタビュー参加者

岡 村 裕 次(平成5年入学)TKO-M.architects・名古屋女子大学

三井島 文 子(平成3年入学)

長谷川(高橋)文(平成4年入学)株式会社 長谷川大輔構造計画

八 板 晋太郎(平成5年入学)八板建築設計事務所

小 林 央 和(平成6年入学)清水建設株式会社

 

山田邸 1998年施工 木造2階建て

 

 

環境が形態と空間を決める

 2001年の定年3年前に完成した自邸です。15坪制限の疎開住宅づくりと開墾に励んでいた父の思い出と、源頼朝創建の寺を中心とする集落の周縁部に位置する敷地風景が設計の始まりです。

 北斜面と東西の谷戸に挟まれた幅30m 程の尾根端の敷地形状と,附近の農家に 多い南廊下・北座敷でつくられた古い住居を生かすことが設計テーマでした。古家を残し増築することも考えましたが、空間の大きさ不足 から中止し、東西に長い南廊下の片流れ主屋棟と、その東・西端で南へ突き出る片流れ角屋棟・北 西角の陸屋根二階棟が住宅の形態と空間を決定します。屋根勾配は周壁頂から中庭へ向かい、雨水は地下水化、低い軒は中庭と居住空間に落ち着きを与え、西側斜面を登る尾根道はアプローチ路、 西壁面と下屋庇が玄関前の淀み空間をつくります。北壁面は竹藪で包み込むことで隣接する樹林と連続させ、集落周縁部を囲む緑地景観を維持するよう考えた。

 この住宅の形態と空間は環境と対応して構造化され、住機能を容れています。

                                      文:山田弘康先生